「春の雪」その1

うーん、映画の感想は難しい…。ドラマなら気軽に「面白いから見て!」って書けるんだけど、映画は観るのにお金も労力もかかりますからねえ。無責任に誉めて「嘘つき!」って思われても申し訳ない、かと言って簡単に「こんなの観る価値ない」とか貶すのもどうかと思うし。松尾スズキさんのちょっと前のエッセイで、ネットでの素人劇評にかなりご立腹なのを最近読んだばかりで、例えどんな感想でも、作り手への敬意は忘れちゃいけないなあと改めて思ったんですよ。なんでいきなりこんな話から入ってるかと言うと、公開初日の私の感想は、「思ってたより全然いいじゃん!」だったのです(その時の興奮っぷりは、こちらのはてなダイアリーに書いてあります)。でもその後ネット上の感想を見回ってたら、あまりにも評判が悪くて、なんだか自分の感想に自信が持てなくなって来ちゃって…。それで、昨日のレディースデイにもう一回観てきました。それで、やっぱり自分は結構好きだわこれ、と再確認。いやね、原作ファンの人が「イメージと違う」とか言うのはわかるんですよ。でもクソミソに書いてる人のほとんどが原作未読(というか三島文学の基礎知識すらないレベル)で、ただ「売れっ子監督と人気スターの悲恋もの=泣けそう」っていうだけで観に行ったらしく、「全然泣けなかった!」とか怒ってるわけですよ。「泣ける=いい」っていう風潮は何なんだろうね?だったら素直に「消しゴム」観とけって。あ、ちょっと暴言だわね、失礼。

まーでもそれは、宣伝の仕方に問題があったという事でもあり。行定監督は随分「大衆向け」っていうとこにこだわったみたいだけども、やっぱり三島由紀夫の美学は、そうそう現代の一般人に受け入れられるものじゃないんじゃないかな(私にも良くわからないし、共感もできません)。だったらいっそ、完全にマニアック路線で行っちゃった方が、観る側も覚悟が出来て良かったのかも…。ってそんな事ばっか言っててもしょうがないですね。私が一番良かったと思うのは、宣伝でも脚本でも「純愛・悲恋路線」を前面に押し出してるにも関わらず、決して安いメロドラマにはなっておらず、きちんと正統派の「文芸大作」だったところです。むしろ原作を読んでる人の方が、評価が高いというところからも、それが伺えます。で、そういう格調高い「空気」は、やはりカメラマンのリー・ピンビンによるところが大きいのかなと。どの場面を切り取っても、一枚の絵のように美しかったし。美術や衣装がいいと、それだけでドラマでも映画でも、俄然評価がアップしてしまうのよね…。

私、原作にはさほどハマれなかったんですよ。さーっと流し読みしたぐらいで。でも映画の冒頭、原作とは違って、いきなり綾倉伯爵と蓼科のエグい会話から始まったところで、「あ、いいかも。」と思って。更に大正元年の空や松枝家の広大な庭が映るシーンの、なんとも言えない色調にはすっかり引き込まれてしまいました。全体的に音楽も少なく、ストーリーの起伏もゆったりしていますけど、私は二時間半全く退屈せず、「あー、ここいらないよなー」とか一回も感じませんでした。夢のシーンも、こういうのって普段は私、失笑しがちなのに、無理なく溶け込んでたかなあと。竹内さんが妊娠中だったって事で、ラブシーンで獅童の顔が浮かぶ…などという事も全くなかったです、はい。映画が終わっても、しばらく夢の中にいるような気持ちで、ちょっと浸っちゃいましたね。で、映画を観たら俄然原作に興味が湧いてきちゃって、続編(「春の雪」は「豊饒の海」四部作の第一部)も読んでみようかなあと。

(注:こっからネタバレあり)しかし観た人が一番「?」なのは、清様の行動ですよね。お前自業自得やないか!と。「障害にもめげず、一途に愛し合う男女」というのを想像していた人(特に女性)には、ここがハマれない最大のネックなのでは。でもなー、三島由紀夫っていつもこんなんじゃないのん?映画では無理矢理「純愛」に見えるよう仕立てていたけど、私には最後まで清様が聡子を愛してたかどうか、疑わしい気がする。原作も補完しながら清様の行動を追ってくと、「無防備な子供時代の自分を知られている年上の聡子が、自分に気があるのをアピールしてくるのが、気にくわない」→「聡子が(清顕の為に)縁談を断っていると知り、『私が急にいなくなったら、どうなさる?』という意味深な言葉に動揺させられた事に憤る」→「復讐の為、遊郭に行ったり女中に誘惑されたりした、という嘘の手紙を送る」→「シャムの王子達に『恋人はいないのか?』と聞かれ、プライドを傷つけられたので、蓼科に手紙を燃やすよう命じ、聡子を観劇に誘う」→「王子達が聡子の美しさに感嘆したので、ご満悦」→「雪見の馬車の中で初めてキスをして、実は内心ドキドキものの清様」→「聡子があの手紙を読んでいた事を知り、怒りが爆発」→「聡子からの連絡を一切断ってしまう」→「勅許が下りると、突然未練が沸き上がる清様」→「禁断の愛に燃える」→「聡子、奈良で出家」→「更に追いかけて行き、ついに絶命する清様」というDQNそのもの。

結局清顕にとっては、自分のプライド、美意識に沿っているかどうかが一番大事で、聡子はそれに振り回されただけというか。多分聡子が殿下との結婚を受諾せずに、清顕のところに来ていたら、彼は受け入れなかったんじゃないのかなあ。不倫も不倫、「皇室に嫁ぐ女」との禁断の愛だもん。そりゃ燃えるでしょう。セリフでもあったよね、「僕たちが許された仲だったら、とてもこんなに大胆にはなれなかっただろう。」って満足げに微笑む清様。それに対して聡子は、「清様のお心はそれだったのね。」と責める風でもなく。わかってて、身をゆだねる事にしちゃったんだろうね。覚悟を決めた女は強い!そしてついに聡子が仏門に入ることで、いよいよ彼女は「手の届かないもの」となり、ますます燃える(萌える?)清様。あー変態だなーもう。そして来世での再会という美しさに、大満足で死んでいく清様なのでした。でも原作読んでない人は、ここまで伝わらなかったんじゃないかな。単に清様が子供っぽいだけだと。まあ子供っぽいのは確かなんだけど、原作ではとにかくくどくどくどくど、清様の複雑な心理描写が多いですからねえ。で、私にはよくわからないんだけど、仏教観とかエロも織り交ぜて、独特な世界。

だからねー、一つ注文をつけるとすれば、もうちょっと清様を毒々しくして欲しかったかも。今までの妻夫木君に比べたら、屈折した役ではあるんだけど、何せ「好青年」のイメージ強いし、ハンサムではあるけど、三島的な耽美なタイプじゃないでしょ。だから脚本や演出でもっと、男女問わず魅了してしまう悪魔的な魅力とか、ナルシストっぷりを強調しても良かったんじゃないかな。それじゃ共感を得られないと思ったんだろうけど、どうあがいても一般人とはかけ離れた主人公なんだし。あと「敢えて原作は読まなかった」という妻夫木君だけど、これは多少なりとも読んでた方が良かったかも。

あー、なんかいつまで経っても終わらないですね、これじゃ。長くなりすぎー。続きは別エントリに分けます。ちょっと真面目に語りすぎて疲れたので、次は萌え語り中心でいきますか。

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